ジョン:オレ達はいつも一緒にいろんな体験をしてきた。

ティコ:オレ達はギャングみたいなもんさ。

リッチー:いつも一体となって戦ってきたんだ。そしてその戦いがひどくなっていった。

マット:ロック界のマフィアさ。一度入ったが最後、二度と抜けだせなくなるよ。

ジャーナリスト:BJはただのバンドではなく同じ町で生まれ育ったファミリーなんだ。

マット:(ネックレスを持って)このメダルはこの組織にとってとても意味があるものなんだ。これを与えられるということは、真の仲間だと認められたということなんだ。こわもての大の大人がこれをもらって泣くのを何度も見たよ。

ジョンは3人兄弟の長男としてNYから30マイル南に離れたNJのセイヤーヴィルという労働者階級の町で生まれ育ちました。そこで彼は家族のことは他言しないという大切なレッスンを学びました。

マット:小さな町だからね。みんながみんなのことを知ってて、逃げ場がないんだ。噂はすぐ広まるしね。

ジョンはサウスサイドジョニーやブルース・スプリングスティーンを生んだアズベリーパークのナイトクラブに通 ってはローカルバンドとジャムっていました。

サウスサイドジョニー:ステージでは全力投球する。客にケリを入れるんじゃなく、自分の尻にケリを入れるんだ。それがオレ達みんながステージで学んだことさ。

1979年にジョンはアトランティックシティエクスプレスウェイというバンドを結成し、最初にオーディションを受けたのが17才のキーボードプレイヤー、ディヴィッド・ブライアンでした。

ディヴィッド:紹介されたんだ。ジョンはセイヤーヴィル高校、オレは川を隔てたJPスティーブンス高校に通 っていたからね。

スネイクセイボ:ある日スプリングスティーンが来て一緒にセッションをやってるんだ。15才だったオレは信じられないくらいびっくりしたよ。

サウスサイド:ジョンは他の誰よりもロックンロールに傾倒していたね。自分を捧げているというか、どんなことをしても成功したいと思っているようだった。

ジョン:オレが考えていたことといったら放課後、リハーサルをすることだけだった。

でもジョンは学校でもう一つ興味のあることを見つけました。ドロセアです。

ジョン:歴史のクラスで隣同士だったんだ。それで付き合い始めて、両手でしっかり捕まえて二度と放さなかったのさ。

ジョンは恋人も定期的なギグも手に入れましたが、それでは満足しませんでした。1980年にNYのパワーステーションで働き始めたのです。

ジョン:銀行へおつかいやら、掃除やら、バーガーを買いにいかされたり、使いっぱしりをしてたんだ。

セイボ:オジーオズボーンがレコーディングしてたり、ある時なんかエレベーターが開いたらミック・ジャガーがいたんだぜ。うへえって感じだった。

80年から83年の間にジョンは50曲デモを作り、自分のプロモーションにも積極的でした。

司会者:ジョン・ボン・ジョヴィです!ギグの予定があるんだよね?

ジョン:うん。9月3日にザッパーとブルックリンでね。カジノにもそのうち行くよ。

82年にジョンはランナウェイという曲のレコーディングを行いました。

ジョン:NYのWAPPというラジオに行くまでは何の反応もなかったんだ。

WAPPは当時のNYでは先進的なロックステーションでした。

 

I SAID, IF YOU ARE LYING TO ME, I'M GONNA KILL YOU. -David

ジョン:ランナウェイは偶然にも全米でヒットし始めた。バンドもマネージメントも、代表というものが何もない状態でね。

レコード会社数社がジョンとのレコード契約に向けて動きだしました。

ディヴィッド:ある日ジョンが電話してきて、「ヘイ、レコード契約が取れたぜ!バンドを作らなきゃ!」って言うんだ。オレは言ったよ。「嘘ほざくとぶっ殺すぞ」ってね。

キーボードにディヴィッドをすえて、ジョンはベースのアレックとドラムのティコを連れて来ました。

ティコ:アレックから電話があって、会ってほしいバンドがいるんだって言うんだ。そしてジョンに会った。

最後に加わったのは24才のカリスマ的ギタリスト、リッチー・サンボラでした。

リッチー:好きなバンドのレコードと一緒にプレイするのが好きだったんだ。クラプトンやツェッペリンと一緒にね。そうやって独学したんだ。

リッチーはプロのギタリストになるために大学を一年で中退しました。BJと出会うまでに彼はプロとしての経験を積んでいました。

リッチー:あのガキはスターだ!って思ったね。何か良いものを持ってるって感じたんだ。

ジョン:ある時リッチーがやってきて、「オレがギタープレイヤーになる」って言うんだ。

リッチー:「あの曲知ってるか?マスターしてまたこいよ」って言われて、準備していったらジョンは遅れて来た。彼が来た時にはバンドは今までで一番良く演奏できるようになっていて、「OK、入れよ」って。

ロック・マネージャーのドック・マギーはモトリー・クルーを世に送りだしたことで名が知られていました。83年の秋に彼はBJのマネージャーを引き受けることになりました。

ドック:これは世界一のバンドになるぞ。ぜひやらねばって思ったね。

84年の2月に彼等はファースト・アルバムを世に送りだしました。 レコードセールスはそれほどでもありませんでしたが、ツアーにでるとすぐにファンがつきました。

ドック:オレは言ったよ。「おまえらはどこへでも行けるし、だれとでもプレイできる。なんだってできる」ってね。

ティコ:ギャングだったのさ。みんなに対してね。他のバンド内外に対してではなくて、オーディエンスに向けたギャングさ。

84年にはKISSやスコーピオンズといったバンドとツアーをして世界へ向けて飛び立とうとしていました。 BJは結成してから1年もたっていませんでした。彼等は若く、ハングリーだったのです。

ドック:一身一体のバンドになろうと必死だったんじゃないかな。

元広報:バンド対世間という感じだったわね。

BJの絆はしだいに太くなっていきました。

ジョン:ティコとアレックが一番犠牲を強いられたんだ。二人とも結婚していたからね。収入が必要だったんだ。支払いがあったから。

ティコ:みんなは家族と暮らしていた。経済的状況が違ったんだ。でもやればできると信じていたよ。彼女はギャンブルを信じなかったけど、オレは信じる、オレはやるって言った。結果 、彼女はついてきてはくれなかったんだ。

定期的なツアーのプレッシャーはジョンとドロセアの4年の付き合いにも悪影響をおよぼしました。

ジョン:オレはサーカスに入ってしまったからね。いつもツアーに出て・・・。彼女は将来に不安を感じて、「どうしていつも私ばっかりここでじっと待っていなくちゃいけないの?」って言ったんだ。

ドロセアは待ちませんでした。こうしてジョンとドロセアは別れました。 ジョンはとても傷付いていましたが、雑誌ではダイアン・レインとのツーショットが載っていました。

ジョン:若いやつらがみんなやるようなことをしていろいろと遊んだよ。映画スターの彼女を持ったり・・・

ドック:ロックスターなら誰もは一度はやることさ。でもいずれはドロセアのもとへ帰るのだろうと思っていたよ。

ボン・ジョヴィ仲間の掟は仲間内のことを他言しないということでした。 私生活の痛みは1985年にリリースされたセカンドアルバムに反映されました。

ティコ:セカンドアルバムを出した頃はみんな何かしらトラブルを抱えていたんだ。あれはとても憔悴しきったレコードだったね。

ドック:はたから見ててもひどい状態だったね。歌詞を読めばわかると思うけど。

リッチー:僕らは9ヶ月世界をツアーしてたけど、ソングライターとして、バンドとして、得ているものがなかった。それが個人的にはとても気がかりだった。とても心配していたよ。

ティコ:状態が悪くて、バンドは解散寸前だったんだ。全然良い時期じゃなかったね。あらゆる悪いことを経験したよ。

 

I WENT TO HER MOTHER'S HOUSE AND SAID, "YOU GONNA COME WITH ME. YOU KNOW, I WANNA GET BACK TOGETHER!" -Jon

ジョン:とにかく家に帰りたかった。

ジョンはニュージャージーに、そしてドロセアの元へ帰りました。

ジョン:彼女のママの家を訪ねて、「一緒に来てくれ。元に戻りたい!」って言ったんだ。彼女も同じ気持ちだった。

しかし、ドロセアとよりを戻したのもつかのま、バンドはサードアルバムの制作のため、カナダのバンクーバーへと向かいました。

リッチー:僕達はみな一緒にコンドミニアムに住んだんだ。バンクーバーは大都市に変貌を遂げる直前でとてもエキサイティングだった。

バンドはいつも一緒にスタジオで作業をして、一日が終わると町へとくり出しました。

ドック:町にはたくさんのストリップバーがあって、彼等は通いつめてたよ。

ジョン:彼女たちは全裸で舞台の上でシャワーを浴びてたんだ。

リッチー:外に出ない時でもカードゲームとかいろいろなことをして遊んだよ。

ティコ:町のゴミ状態だったよ。

BJのバンクーバーでの輝かしい日々がサードアルバムのタイトルのインスピレーションとなりました。

ジョン:ドックが言ったんだ。「こんなのはどうだ?スリッパリー・ウェン・ウェット」「え?いいね。濡れてる時はすべりやすい、女の子が石鹸でぬるぬる泡あわになって、シャワーを浴びてる。この状況にぴったりだ」ってね。

86年夏、「スリッパリー・ウェン・ウェット」はトップに輝きました。

ドック:手に入れるのが難しいほど売れたんだよ。こんな売り上げは予想もしていなかったから40,000枚くらいしか用意していなかったんだ。それからは作っては出荷し、作っては出荷という感じだった。

「スリッパリー・ウェン・ウェット」は国内でNO.1アルバムになり、1200万枚が売れました。

 

WE'RE BON JOVI. WE LIVE NOWHERE. WE PLAY EVERYWHERE. -Richie

ディヴィッド:最初の6ヶ月間は1ヶ月に100万枚ずつ売ったんだ。まるで飛び上がって天井に頭をぶつけたみたいだったね。

最初のうんざりした4年間を経て、今やBJは全米でもっともホットなバンドになりました。彼等はすべてを一緒になってやってきたことを祝い合いました。

ティコ:みんなが環になってグループハグをしたよ。その時の僕らにとってNO.1になったのはとても良い体験だった。クールだったね。

リッチー:僕らはロックスターになったんだ。いつも夢見ていたロックスターになったんだ。

86年末、全米NO.1になった彼等のツアーチケットはもっとも取りにくいチケットとなり、BJは16ヶ月で200回のソールドアウトコンサートを行いました。

リッチー:おれたちゃBON JOVIさ。どこにも住んじゃいない、どこででもプレイするんだ。

サウスサイド:行けるところどこででもプレイして、できる限りの力で一生懸命プレイしていた。

スティーブン・ヴァン・ザント:世界で最高のロックバンドさ。

BON JOVI仲間の中では内輪話を他人に漏らすことはいっさいしませんでした。

リッチー:自分の洗濯物を外に出さないってことだよ。

マット:ジャージーシンジケートさ。秘密組織。ロックンロール・マフィア。

ジョン:バックステージのことや、パーティ、写真、誰がハイで、誰が酔っていたか、そういうのはオレたちの問題だ。地域的なものなのか、ゴッド・ファーザーを見過ぎたせいなのかわからないけど、内輪の問題は内輪でとどめておくというしきたりみたいなものがあるんだ。

内輪のことをあまりにも内密にするので、外の人間は彼等がハードなツアースケジュールでストレスを抱えているのだと気にし始めました。

元広報:ジョンは彼等に燃え尽きてもらいたくなかったの。

ジョンが内輪のことを内密にする理由の一つはファンから隠れるための心の葛藤から出たものでした。ベストを尽くすという彼の信条が、彼の声にシリアスなダメージを与えていたのです。

ジョン:頭の中は「歌えない!」という思いでいっぱいだった。医者がステロイドを打ってくれて、咽を楽にしようとしてくれても一日中しわがれ声。最悪なのはその後にも4ヶ月も5ヶ月もショーをやらなければいけないということだった。

ディヴィッド:オレたちはできるかぎりジョンのパートをカバーしようとしたよ。でも良い気分はしなかった。だって、彼のギグなんだから。

ジョン:ちっとも良い状態じゃなかった。でももう「マシーン」を止めることはできなかったんだ。

ボーカルコーチの助言で、ジョンはスリッパリーツアーを終えました。しかし、ジョンとバンドはすぐにスタジオに入って4枚目のレコード制作にとりかかりました。 88年の秋にリリースした4枚目のアルバム「ニュージャージー」は、5枚のトップ10シングルを出し、またたく間にNO.1を獲得しました。

ジャーナリスト:大音量でとてもパワフルなメタルレコードだった。ベストの中の一つだよ。

バンドはすぐツアーに出ると20カ国を訪れ、230のショーを16ヶ月に渡ってこなしました。 ニュージャージーツアーの最中の1989年4月29日、27才のジョンとドロセアは突然思い立ってラスベガスを訪れました。

ジョン:「結婚しようぜ!」って言ったんだ。彼女は「なぜ?どうやって?どこで?一体何を言ってるの?」って言って、「いますぐ結婚するんだ。誰にも内緒で」って答えたんだ。

マット:マネージャーにも、セキュリティにも、バンドにさえ言わなかったんだ。

ジョン:突然とんずらしちゃったのさ。特に気にしてなかったんだけど、後でドックや両親やバンドからすごく責められたよ。みんな腹を立てていたんだ。でも数日考えて、「気にするもんか!」って思った。

数週間後、新妻を連れてニュージャージーに戻ったジョンとバンドはニュージャージー最大のアリーナ、メドウランドでソールドアウトの凱旋コンサートを行いました。

リッチー:特別なショーになるよ。地元だしね。

ジョン:夢だったんだ。ここがゴールなんだよ。ついにやったぜって感じだね。

ジョン:(バックステージで)4回くらい泣きそうになったよ。

2ヶ月後、BJはオジー・オズボーン、モトリー・クルー、スキッド・ロウ、スコーピオンズと共にモスクワ・ミュージック・ピース・フェスティバルに参加しました。 ベルリンの壁崩壊から数カ月前、彼等は由緒あるレーニン・スタジアムで演奏することを許された西側始めてのバンドとなりました。

ドック:アルコール中毒や、ドラッグに苦しむソビエトの子供達のためにやったのさ。

その一年前、約20トンのマリファナの密輸入に関わった罪で、ドック・マギーは反ドラッグチャリティーを主催するという懲罰を課せられました。そのメイク・ア・ディファレンス・ファンデーションがモスクワコンサートのスポンサーになりました。

ジョン:オレは一歩下がってみていたよ。だってオレは一度もドラッグユーザーになったことはないからね。

反ドラッグというメッセージにも関わらず・・・(???)

セイボ:「みんなでロシアに行ってプレイするんだ!みんなで飛行機に乗って・・・ワオ、こんな荒くれ共がどうやって飛行機に乗るんだ?!」って思ったよ。

セイボ:モトリー・クルーをはじめとしてほとんどのバンドが飛行中???。メイク・ア・ディファレンス・ドリンク・ファンデーションといった感じだった。

ソビエトでは冷戦の緊張が弛んできていましたが、バックステージではバンドのエゴがヒートアップしていました。

ジョン:誰の後に誰がくるか、虚栄心のために戦わなきゃいけなかった。オレ達はトリをつとめることしか考えていなかったよ。だって、自分達は世界で一番ビッグなロックバンドだと自負していたからね。

リッチー:ジョンがクレイジーなアイデアを思い付いたんだ。ロシアのアーミースーツを着て軍人の中を行進してステージにあがるってやつをさ。

BJはモスクワでの盛大なショーを終えた後、MTVビデオミュージック・アウォードで2つのアコースティックギターでプレイをしてショーをすっかり自分達のものにしました。 ステージ上ではジョンとリッチーはお互い切り離せない存在でしたが、ステージを離れたところではバンド内の緊張は高まっていました。

 

FIVE GUYS TOOK FIVE PLANES TO FIVE DIFFERENT PLACES. THERE'S NO GOODBYES. -Jon

元広報:休みが取りたくてしょうがなかったのだと思うの。

マット:「ジョン、調子はどうだい?」と聞くといつも「疲れた。もう疲れたよ」という返事しか返ってこなかった。みんなの緊張もどんどん高まっていったよ。

リッチー:ミュージックビジネスにうんざりして、お互いにうんざりして、それまでに4枚のアルバムを作ってツアーをしてきて、あの時点でもう限界だった。

90年2月、BJはメキシコでニュージャージーツアーを終えました。

ドック:お互い顔を合わせもしなければ、話しかけもしないんだ。もうBJではなかったよ。

ジョン:めちゃくちゃだった。精神的にも肉体的にも。ステージを見てればわかったと思うよ。オレたちはハイになって、酔っぱらって・・・そんなふうにしてニュージャージーツアーは終わったんだ。誰かが誰かの妻を寝取ったわけでもない、金をくすねたわけでもない。そんなのはまったくなかった。でも、ショーが終わるとそれぞれが別 々の飛行機に乗って、別々の場所へ散っていったんだ。さよならの挨拶もなく。オレはただスーツケースを手にとると家に帰った。そうしてオレ達は死んだ。死んだんだ。

90年春、7年間共に歩んできたバンドは離ればなれになり、言葉もかわさなくなっていました。

ドック:みんなが「オレが」、「オレが」と言い始めて、センテンスの中に「オレ達が」という言葉が出てこなくなった。「オレ達」の代わりに「オレ」を使い始めた時、パーティは終わったんだ。

ティコ:自分の生活に戻る必要があったんだ。オレは自分の部屋をフォーシーズンズホテルの部屋のように改装したんだけど、気分転換にならないんだ。

ジョン:エレベーターに乗れなくなってしまったんだ。妻に言われて「大丈夫だよ。平気さ」って言ってたんだけど、普通にエレベーターに乗ることができなくて、「本当だ」って思った。80年代後半から 89年までの4年間走り続けて精神的にも肉体的にも燃え尽きてしまったんだ。

新しいことへの挑戦のためにジョンは映画Young Guns IIのサウンドトラックを手がけました。Blaze of GloryはNO.1ヒットに輝きました。ジョンはオスカーにノミネートされ、ベスト・オリジナル・ソングとしてゴールデン・グローブ賞を獲得しました。

ジョン:これがオレのはけ口になるって思ったよ。バンドに疲れたらサウンドトラックを作ればいい。アイデアやストーリーラインはすでに用意されているんだから簡単さ。それに一人でもやっていけるって証拠ができて自信がついたよ。

90年のおおみそか、ドック・マギーは日本でのニューイヤーズイブコンサートのために再びバンドを呼び戻しました。

リッチー:こりゃ楽しくなるぞ!!

かつて固い絆で結ばれていたバンドの緊張感は圧倒的なものでした。

ジャーナリスト:雑誌の企画で彼等を取り上げることになって、僕は野獣の谷へ送り込まれたんだ。僕は真実を掴むために日本へ行ったよ。頭には大見出しが浮かんでいた。BON JOVI: DEAD OR ALIVE?ってね。

カメラマン:表紙の写真を頼まれたので、ジョンとリッチーにカメラの前でポーズをとるように頼んだんだけど、二人とも一言もしゃべらないんだ。

ジャーナリスト:ジョンはいつものように正面を向いてスーパースターらしいポーズをとったんだけど、リッチー・サンボラはジョンに隠れるようにしてジョンの肩を見つめるようなポーズをしたんだ。まるで彼がおそらくずっとそう感じてきたようにね。

カメラマン:フォト・セッションは約1時間半だったんだけど、その間、お互い一言も話しかけないんだ!ただ無視してるんだよ。

沈黙の中、ジョンとリッチーの溝は深まっていきました。

ジョン:最近になってやっとお互い認めることができるんだけど、あの時のリッチーの気持ちは「曲の50%はオレが書いているのに、レコード会社はお前ばかりかわいがって」とかそういうことだったんだ。

91年1月、彼等はまたばらばらになりました。ジョンは困惑して惨めな気持ちでした。

ジョン:オレはよくカリフォルニアのマリブにいたんだけど、灰色の夏だったよ。オレはあの夏をそう呼んでるんだ。毎日ビーチで酒を飲んで・・・みじめで・・・なぜこうなったのかわからなくて・・・望んだ成功、すべてを手に入れたはずなのに・・・ちっとも幸せじゃなかった。

マット:よく言うだろう。一度頂点を極めたら、後は落ちるしかないって。それがあの頃の彼の恐怖だったんだと思う。次に何ができるかってね。

彼は現状を改善しようと、ドロセアとドックと数人の友人と共にバイクの旅に出ることにしました。しかしその頃からドック・マギーとジョンの関係は変わってきました。

ジョン:彼はマネージャーとしてバンドのプロモーションをして自分の仕事を遂行しただけなんだ。でかいバンドに育ててやると言って実際そのようになったしね。でも、彼はオレを広い目で見てくれなかった。サウンド・トラックをやることにしても、「なぁ、映画をやったらどうする?」って言っても、彼にはその展望はなかったんだ。

91年の秋、BJがMTVのライフタイム・アチーブメント・アウォードを受賞した時、ジョンとドックの確執は表面化しました。

ジョン:これはキャリアが終盤に近付いたアーティストのための賞だってわかっていたし、そんな考えは大嫌いだったんだ。でもドックが少しづつテレビに姿を見せていった方がいいと言うから・・・オレ達はちっともハッピーじゃなかったけど、(受賞式のスピーチ:この賞は僕達のものではなく、ファンのもので・・・)ステージに上がることを承諾してトロフィーを受け取ったよ。オレは舞台のそでにいる女の子にそのトロフィーを差し出して「あげるよ。オレはこんなものいらない」って言ってその場を立ち去った。

ショーの後、ジョンはドックと言い合いになりました。

ジョン:車の中にはドックと彼の妻とオレとオレの妻が乗っていて、オレの不満を訴えたんだけど・・・言葉の応酬があって、とにかく先に進まなきゃ、波を乗り越えていかなくては、ということになって、「そうだね。まさにその通りだよ」って言ったのさ。

ドック:あの時はとにかく醜い状態になっていって、関係が悪化する一方だった。

一緒に苦楽を乗り越えた数年間ののち、ジョンはドック・マギーを首にしました。

ジョンは自らバンドのマネージメント会社を設立しました。ちょうど時を同じくしてリッチー・サンボラはソロ・アルバムをリリースして自分のソロ活動をスタートさせました。アルバムにはエリック・クラプトンも参加しましたが、アルバムはかろうじてトップ40に入っただけでした。

リッチー:もう少しラジオを意識した曲づくりにすればよかったのかもしれないけど、そうするとソウルフルなアーティストという枠から滑り落ちてしまう。

最後のツアーから2年が経とうとしていた92年春、BJは再起を狙うことに決めました。

リッチー:辛い時は自分に言い聞かせるんだ。例え誰かがバンドは解散するって言ったって、オレ達は戻って来たんだ。だって、オレ達はめちゃくちゃビッグで、めちゃくちゃ良いバンドなんだからって。

ジョン:オレ達は成功したバンドなんだ。誰も「あいつが嫌い」なんてことはなかったんだ。ただお互いに燃え尽きただけで、そこにはどろどろした醜い感情なんてなかったんだ。それなのに解散なんてするほうがおかしいよ。

リッチー:戻ってきて、みんなで顔を合わせて、お前のあの言葉に腹がたった、お前のこの言葉に傷ついた、とかってお互いに本当のことをひとしきり言い合って、テーブルを離れる時には「ふぅ!よし!」って感じで、それでレコード作りにとりかかったんだ。

ティコ:基本に戻ったのさ。5人の男が音楽をやるっていう基本にね。

92年暮れ、BJは5枚目のアルバムを出しました。キープ・ザ・フェイスのプロモーションのため、バンドは自分達のルーツであるニュージャージーの小さなクラブに戻り、数日間プレイしました。

リッチー:キープ・ザ・フェイスはオレ達が戻って来たという世界へ向けての証明でもあった。アルバムは1000万枚売れて、広い市場を新しく開拓したんだ。オレ達は顔を見合わせて「やったぜ!」って言ったよ。

ジョン:そうしてBJの第2章が始まったんだ。

キープ・ザ・フェイスのツアー後、BJは94年にグレイテスト・ヒッツをリリースしました。その中にはトップ10に6ヶ月もとどまった新曲も含まれていました。「オールウェイズ」は愛と忠誠を歌っていましたが、BJの内部では最大の裏切りに直面 しようとしていました。

 

WE GOT TO THE POINT WHERE WE CAN'T CARRY AWAY. IT'S NOT FAIR FOR THE REST OF US WHO COULDN'T SACRIFICE LIVE. -Jon

バンドの話では、友人でありベースのアレック・ジョン・サッチは今後スタジオでのアルバム制作には関わらず、ツアーに重点を置くということでした。

リッチー:何千、何万という人の前でプレイしている状況でミスをされると「あっ・・・・なんてことをしてくれるんだ!」。最初の数回は彼を悪く思うんだけど、そのうち自分や、組織そのものまで悪く思うようになっていくんだ。

ジョン:我慢できないところまで来てしまったんだ。見逃すのは他の連中にフェアじゃない。スタジオではやり直しができるけど、ライブではそうはいかない。もう面 倒見きれなかったんだ。

94年の夏、アレックは雑誌のインタビューで内輪もめのことを話してしまいました。ウォールマガジンの記事にはジョンがたびたびアレックのプレイに文句をつけるので、もうアルバム制作には携わらないというアレックの言葉が書かれていました。(雑誌の見出し:サッチはあらゆるインタビューを受けるのをジョン・ボン・ジョヴィによって禁止されている、サッチはいつも後回しにされている、ジョン・ボン・ジョヴィはアレックのプレイが最低だと言っている)

リッチー:雑誌の記事のせいではないんだ。ただ・・・洗濯物がこんなふうに公衆の目に触れたことは恥じるべきことだよ。オレ達はそういうバンドじゃないんだからね。

こうして、10年以上のバンド仲間だったアレック・ジョン・サッチは首になりました。

ジョン:彼に切り出すのはつらかったけど、ある日彼をうちに呼んで・・・言ったよ。

バンドはアレックの除名について雑誌の記事が原因ではないと主張しました。アレックはBehind the Musicのインタビューを拒否しました。

ジョン:オレ達の誰もアレックと会っていないし、話してもいないというのは残念なことだ。でも、よく彼のことを考えるよ。

80年代、成功を満喫した後、その成功からくるプレッシャーによって苦しんだのち、BJは生まれ変わりました。 95年7月、ニュージャージーの5人の男達は7枚目のアルバムを出しました。「ジーズ・デイズ」はアメリカでプラチナムを獲得し、イギリスでトップになりました。BJは42カ国を回り、72回のソールアウトのスタジアムコンサートを行いました。世界的なスーパースターとしてステイタスを確立したのです。 バンドとしても活動するかたわら、それぞれソロ活動にも力を入れ始めました。ティコは芸術にその情熱を傾け、画家、彫刻家として第2のキャリアを確立しました。

ティコ:ジョンがその機会を与えてくれたんだよ。昔からあった芸術への渇望がふたたび芽生えて来たんだ。心のおもむくままに描く機会を与えてもらったよ。

ディヴィッド・ブライアンはミュージカルの音楽を書き始めました。

ディヴィッド:自分が地下室で書いた曲を俳優がステージ上で生で歌うのを見るのは素敵なことだね。物語や登場人物のことを考えたり、新しい道で仕事をするのはとても素敵だよ。

リッチー・サンボラは女優のヘザー・ロックレアと恋に落ちました。

ヘザー:友だちを説き伏せて、彼に電話してくれるように頼んだの。なかなか返事が来なかったんだけど、ヘザーがあなたに興味が、とっても興味があるからって言ってくれて、私がNYに行った時に会えたの。?????

94年12月、彼等は結婚しました。

リッチー:アメリカン・ストーリーだよ。しがない町の通 りで育った子供が今やパーク・アベニューに居を構えてヘザー・ロックレアと結婚したんだ。アメリカン・ドリームだよ。

90年代中ごろからジョンは音楽と映画活動を両立させてきました。95年、彼はムーン・ライト&ヴァレンチノで小さな役を獲得しました。その後の5年間でジョンは6つの映画に出演しました。

ジョン:今はさらに真剣味が出てきてどんなことよりも映画に情熱を注いでいるんだ。偶然の産物だったんだよ。映画界に飛び込むことなんて考えてなかったのにね。

2000年春、ジョンは超大作のアクションムービー、U-571に出演しました。第二次世界大戦中の潜水艦での危険な任務についた男達の物語です。

ジョナサン・モストウ監督:俳優としてのジョンと仕事をしてみて、これははっきり言える。彼は3年以内にメジャーなムービースターになるよ。

しかし、ソロ・プロジェクトがバンド活動に支障をきたすことはありません。2000年6月、バンドは8枚目のアルバムをリリースしました。

ジャーナリスト:BJのルーツに戻ったようなレコードだね。BJファンは気に入ると思うよ。

ディヴィッド:楽しいロックンロールレコードさ。

ジョン:このレコードにはテーマがあって、それは今履いている自分の靴が心地良い、自分がどこにフィットするか、何をするか、どうやるかがわかっているということなんだ。

他の兄弟たちと同じように、BJの男達は自分達の道を生きてきました。しかし彼等それぞれが何を成し遂げたとしても、彼等は今でも世界一ビッグなバンドになる運命を背負ったニュージャージーの5人のキッズなのです。そして彼等はそれを成し遂げたのです。

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